【無料】『あなたの愛車は,今いくら?』全国の買取店ネットワーク
どんなに古い車でも見積もりできます!
20世紀の初頭には、すでに日本には自動車が輸入されていた。しかし、当時の日本では自動車が売れなかった。外国商館が輸入していたが、米国の価格に比べ日本での卸値を通常4倍ほどに設定していた。そのため日本の販売店は一般に販売する価格が見込めなかった。買い手がつかないのでレンタカーにしようとしたが、それでも借り手がつかなかったという。日本自動車会社が花柳界を中心に売り出したところある程度の販売が見込めるようになったが、その反動で一般人からは金持ちの道楽だというイメージが焼きついてしまった。当時の一般の人々の憧れは自動車よりも豪華できれいな馬車であったという。
しばらくして大正時代になる頃には直接外国との取引に乗り出す日本の商社が現れるようになった。価格が安くなり商社という商社があらゆる自動車を輸入するようになり、商社で自動車を取り扱っていないところは無い程であった。ほとんど手当たり次第に各種自動車が輸入されその多くがタクシー用途に使われた。この頃の運転手は特殊技術者であり花形職業で、一方自動車のセールスマンは運転手から転進する者が多かった。花柳界や大会社を相手に販売するセールスマンは一匹狼であり丁々発止で大金を稼いだ。パッカードのその年の新車の第1号車を購入するのに、毎年複数人が全身全霊をかけて販売店経営者と営業を接待したとか、さらにそれらを出し抜くために購入者自身が米国に乗り込み手続きをし、日本の輸入元が売った際の販売手数料もきちんと支払い、船賃滞在費などすべて合わせても接待するより安かったというような話が残っている。しかし程なくして官公庁が自動車を求めるようになると信用が求められるようになり、見積書の提出も必要になったため輸入代理店は会社として信用のあるところになっていった。
1923年の関東大震災のため路面電車が使えなくなった東京市が代替バスの種車としてフォード社に1000台のT型を発注した。フォードは800台しか対応できなかった。ここに商機をみたフォード社は1925年に横浜に組立工場を建設。2年後、ゼネラルモーターズがフォードを追って、大阪にシボレー組立工場を建設。この2社により日本での初期のモータリゼーションが始まった。トラックやバスへの架装も多かった。乗用車の多くはタクシー用途に使われた。しかし軍部の影響力が強まるに従い1930年代半ばから徐々に国外の状況に疎くなっていった。
『ウィキペディア(Wikipedia)』参照
広告C01-3